藤岡家住宅 ― 2013年04月08日 12:29
朝から雨でしたが、当初は奈良の写真美術館にでも行こうと走りましたが、近くにしようかということで、京奈和道路の五条北IC近くにある藤岡家住宅に行きました。
はじめていきましたが、なかなかいいところでした。
藤岡家の人々は、東大二人、京大、阪大で、県知事や医学博士と、すごい人たちばかりでした。
与謝野晶子直筆の巻物やら棟方志功の版画、そして日常使っていた道具など、陳列されているどれもが、一見の価値がありですね。
今回は女性が当時使っていたものや絵本の特別展示ででした。
当主だった藤岡長和さんは俳号を玉骨といい明治21年生まれで昭和41年に亡くなったそうです。玉骨という俳号は、直訳すれば「美人の骨」または「梅の幹枝を例えていう言葉」ということです。
「氷肌玉骨」と熟語では、美しい女性のこと、また、梅の花のことという意味らしく、「氷肌」は氷のように清らかな肌、また、寒中に咲く白い梅の花のたとえみたいです。
藤岡家の人々は、東大二人、京大、阪大で、県知事や医学博士と、すごい人たちばかりでした。
与謝野晶子直筆の巻物やら棟方志功の版画、そして日常使っていた道具など、陳列されているどれもが、一見の価値がありですね。
今回は女性が当時使っていたものや絵本の特別展示ででした。
当主だった藤岡長和さんは俳号を玉骨といい明治21年生まれで昭和41年に亡くなったそうです。玉骨という俳号は、直訳すれば「美人の骨」または「梅の幹枝を例えていう言葉」ということです。
「氷肌玉骨」と熟語では、美しい女性のこと、また、梅の花のことという意味らしく、「氷肌」は氷のように清らかな肌、また、寒中に咲く白い梅の花のたとえみたいです。
行ったときはこんなに晴れていましたが・・・
玉骨の名前の由来の、100年経った梅の木です。
玉骨さんが使っていた辞書や文具類です。
長岡家のおばあさんですが、いかにも血筋のいい頭の良さそうなおばあさんです。
その方が使っていたかんざしや櫛。
井戸。
五月の節句の幟ですが、10m位の長さで武者絵が幟一杯描かれていました。
この椅子は屋久杉で作られていました。
御霊神社参道の大ヒノキです。微妙に傾いていますが威風堂々としていました。
海津大崎花見カヌー漕ぎ漕ぎ ― 2013年04月14日 17:58
滋賀県の海津大崎の花見の時期にカヌーを漕ぎたいとずっと思っていました。
今年初めて行きました。
たくさんの車が花見を楽しんでいましたが、一方通行になっていたので、長浜から行くと目的地まで行けませんでした。
いろいろ場所を探しましたが。結局二本松海水浴場からおろすことにしました。
今年初めて行きました。
たくさんの車が花見を楽しんでいましたが、一方通行になっていたので、長浜から行くと目的地まで行けませんでした。
いろいろ場所を探しましたが。結局二本松海水浴場からおろすことにしました。
桜はまさに満開状態で、天候が少し曇りだったこと以外は、グーでした。
竹生島も見えていましたが、曇りのためにいまいちはっきりしません。
赤い桜も所々に。その下でバーベキューなどをしていました。
風とうねりが強くなってきたので、海津大崎に向かう岬から、引き返しました。
それと花見遊覧船の波が半端じゃなく押し寄せて、コントロールが難しかったです。
桜の花びらが湖面を漂っていました。
明日か明後日になると花が散り始めもっとたくさんの花びらが湖面を漂うでしょう。
船をおろした海水浴場です。たくさんの人が思い思いに桜と琵琶湖を楽しんでいました。
ジェットボートもたくさん来ていました。
ここでコーヒーをわかして飲みました。
久しぶりのカヌーでしたが、波と風で少し早めに切り上げました。
明日は近江八幡の水郷を漕ぎ漕ぎするので、体力温存しました。
琵琶湖はいつ来てもいいのですが、できれば青空でいてほしかったのですが、これはやむを得ませんね。
須賀神社参拝 ― 2013年04月14日 18:30
カヌーを漕いだ後、菅浦の須賀神社に行きました。
途中休憩所があり、竹生島がよく見えていました。
桜を入れてカシャ!
途中休憩所があり、竹生島がよく見えていました。
桜を入れてカシャ!
須賀神社前の民家に枝振りのいい松がありましたが、政党ポスターがその趣を半減させています。
立派な扁額のかかった須賀神社入り口です。
やや長い石畳の参道があり、途中おじさんが休憩しており、
「元気やのう」と声をかけてくれました。
こちらもあえいでいたのですが・・・・
この神社は裸足で境内に行く決まりになっています。
観光客はスリッパです。白州正子さんは裸足で行ったようですが、やっぱり裸足で行った方が良かったかなと後で思いました。
伝承によれば、天平宝字3年(764年)に「保良宮」として創始されたと言われています。同5年から6年にかけて淳仁天王がこの地に隠れ住んだのでその後、淳仁天皇を合祀したということです。
明治43年(1910年)に、小林神社と赤崎神社を合祀し、社号を須賀神社と改称し現在に至っているということです。
本社は清浄が保たれ、現在でも手水舎より先は靴履きはだめで本来は裸足で参拝するしきたりとなっているということです。
面白い形の手水の出口。
琵琶湖のタニシかな。
参道からの菅浦。
結構たくさんの人がバスでやってきました。
そしてガイドさんにいろいろ説明を受けていました。
湖北では有名なところでしょうね。
テレビでもよくここが紹介されていますから。
湖北らしくのんびりと雅な雰囲気が漂う神社でした。
近江八幡水郷 カヌー ― 2013年04月15日 22:17
海津大崎を漕いだ後は近江八幡の水郷を漕ぎました。
カヌーは昨日組み立てていたので、降ろすところを決めれば、後はワンタッチでした。
近江兄弟社のグラウンド裏から漕ぎ出しました。
風もそれほど吹いていずうららかな感じの景色の中を漕ぐのは、最高でした。
カヌーは昨日組み立てていたので、降ろすところを決めれば、後はワンタッチでした。
近江兄弟社のグラウンド裏から漕ぎ出しました。
風もそれほど吹いていずうららかな感じの景色の中を漕ぐのは、最高でした。
道から近いので楽でした。
桜はもう終わりでした。
来年はあと1週間ほど早くにこなければ行けません。
緑の土手が気持ちいいです。
程なく小さな島があり、橋が架かっていました。
島には東屋とトイレがあり、ここで一服しコーヒーを飲みました。
バードウォッチングをしようと思いましたが、思ってほど多くはなかったです。
遊覧船がひっきりなしに行き来していました。
休憩時間。
吉野大龍神。
亀さんもいましたが、国産ではないですね。
漕いでいると突如かもやカイツブリが飛び出します。
あちらもびっくりしているでしょうが、こちらもびっくりします。
カラスが巣をしていました。
のどかな水郷です。
たくさんの水鳥が歓迎?してくれました。
11時30分に漕ぎ出して、1時20分に元の場所に戻ってきました。
次にここを漕ぐときは、街中が面白いでしょう。
楽しみにとっておこうと思います。
吉野ちょいのり ― 2013年04月28日 12:27
宮滝遺跡と吉野の桜がまだ残っていないか見たくてバイクで走りました。
途中大淀町の上市に立ち寄りました。
旧街道を走りましたが、いい町並みが続いていました。
途中大淀町の上市に立ち寄りました。
旧街道を走りましたが、いい町並みが続いていました。
路地を入るといきなり大きな煙突がありましたが、酒造メーカーの煙突でした。
吉野町の吉野山麓に桜木神社があり、そこでも休憩しました。
小振りですがなかなかいい神社でした。
「この神社は、大己貴命・少彦名命、それに天武天皇を祀っているということです。
大己貴命・少彦名命は、古くから医薬の神としての信仰があつく、特に初代紀伊藩主大納言徳川頼信公は、たびたび病気平癒を祈願しています。
天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝説があります。
のち大海人皇子は勝利を得て(壬申の乱・六七二)明日香の浄見原に都を定めて、天武天皇となられたのです。
このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。
皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み
と万葉集にもあるように、そのかみの大宮人は、吉野川を舟競い、あるときは草摘みに、又あるときは神に祈るため、この辺りへもたびたび歩を運んだことでしょう、そう思うだけでもこの辺りのたたずまいは、万葉の抒情がそくそくとせまって来るではありませんか。」
と、吉野町観光課のパンフレットにありました。
小振りですがなかなかいい神社でした。
「この神社は、大己貴命・少彦名命、それに天武天皇を祀っているということです。
大己貴命・少彦名命は、古くから医薬の神としての信仰があつく、特に初代紀伊藩主大納言徳川頼信公は、たびたび病気平癒を祈願しています。
天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝説があります。
のち大海人皇子は勝利を得て(壬申の乱・六七二)明日香の浄見原に都を定めて、天武天皇となられたのです。
このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。
皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み
と万葉集にもあるように、そのかみの大宮人は、吉野川を舟競い、あるときは草摘みに、又あるときは神に祈るため、この辺りへもたびたび歩を運んだことでしょう、そう思うだけでもこの辺りのたたずまいは、万葉の抒情がそくそくとせまって来るではありませんか。」
と、吉野町観光課のパンフレットにありました。
大きな杉の木があります。山肌には桜の木がたくさんあり、シャクナゲも咲いていました。
屋根付き橋を渡り境内に行きます。
軒瓦の紋も桜です。
杉の大きさが分かるでしょう。
吉野川に注ぐ支流ですが、きれいな流れでした。
吉野川も五条を過ぎるあたりからは汚れてきますがこの辺はまだきれいです。
目指す宮滝遺跡はこの碑だけでした。
もっと詳しくは吉野歴史資料館にあるそうです。
もっと詳しくは吉野歴史資料館にあるそうです。
義経がうたた寝した橋で、えらい人はうたた寝しても歴史にその名を残すのですね。
私はうたた寝ばかりしていますが・・・・
私はうたた寝ばかりしていますが・・・・
このあと吉野山に登りましたが、桜は所々で咲いているだけで、もう赤い若葉が出ていました。この日98km走りました。
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